A heady tale

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第5回新司法試験結果

結果は、不合格でした。

友達が受かったことは本当に嬉しく、不甲斐ない自分が本当に情けない。

落ちると思っていたし、悔やむことはないと思っていたけど、実際に落ちてみると、
こんなにも悔しい。

道を歩きながら泣いたのは、大好きだったじいちゃんが死んだ時以来、2回目。

もう一度やります。

落ちても、泣くことのないくらい、戦ってみたい。

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2年秋学期期末試験

このブログで「できた」と書いたものは良い成績が来て、「ダメだった」「冴えなかった」
などと書いたものはそれなりの(リーズナブルな)成績であり、民訴だけは思ったより良かった。
自分の感覚とテストの結果が一致していることは、その法律の考え方に大きな誤解が
ないことを示しているので、自分がいい答案だと思うような答案をこれからも書いていって
良いのだという自信になった。

受験科目だけに絞ると、尻上がりにGPAが上がってはいるのだが、まだ来年の新司で
勝ち負けに持ち込めるレベルではないのはもちろん、これまでと同じ成長曲線で成長
しても、未だ勝ち負けには持ち込めないだろう。
二次関数的成長が必要であり、その下地を作る機会はもはやこの春休みしかない。

まあしかし、徐々にできるようになってきたな、という感じは確かにあり、その感覚は
実に楽しいものだ。
太古の昔だが、学部入試のときは完全にRPG気分で勉強していて楽しかったので
(「hacomaはかわいじゅくのえいたんご2001をおぼえた」みたいな)、そういう
感じに近づいていければなあと思う。

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民Ⅳ

苦手の民事系だが、「俺でもできる」問題だったので、まあ、全然
ダメってことはないだろう。

知ってる論点を書けたからと言って、全然面白くない。それは単に
ラッキーなだけだ。全ての論点を知ることができて、その中から司法試験は
出題される、というなら、知っている論点を書けることは大切だ。しかし、
現実はもちろんそうではないのだから、「知っている」ということも、
「考える」ということに吸収されなければならない。これが分断されると、
論点主義ということになるのだろう。

知っている論点がでて、喜々として答案を書くことは、
知ると考えるの分断と裏腹だということを肝に銘じたい。

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商法

論点は外してないが(外しようがない)、冴えた答案ではなし。
3枚くらいしかかかなかったが、6枚目に入ったと言っている人もいて、
何を書いたのかと思う。

総じて、自分の答案は人と比べて分量が少ないと思う。
なぜか。以下は個人的な思考整理。


これは、「問いに対して端的に答える」ことをよしとして長年生きてきた
ということが非常に影響している。

「~はできるか。」

と問われたら、

「できる。~だからだ。」

と答えるべきだと考えているから、理解の時点で既にそうなっている。
だから答案も、簡素になる。

これは、例えば一般論を述べる部分としてはいいのだろうが、
本件ではどう考えるべきか、というときに、同様に簡素な理由で結論を
導くのはまずい。本件でどう考えるべきか、ということは、(ガチガチの判例
にぴったり当てはまるような場合でない限り)生の対立点に踏み込むということだからだ。
そこでは、簡素な理由付けでは誰も納得させられない。

にもかかわらず、自分の答案はここが薄いのだろうな、という気がする。
だから分量がでないのだ。


というこの考察自体が簡素な理由付けによってなされているか(笑)

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民実

テスト後に人々の話を聞くに、さっぱりの出来のようである。

民事系の苦手さが際だっている。
特に民法の基本的な考えが全く身についていないのだ。
下手にCもらうくらいなら、落としてもらって、
1か月勉強し直してCを取りたい。

春休みは民事をやる。
事例研究か、民事法をやろうとおもっていたが、それより先に、
またはそれと平行して、もっと民法を根本から分かるような何かを
した方がいい気がする。
何をすればいいのか。教科書を読むとしても、誰を読めばいいのか。

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